人間は何でできているのか
1.人間は記憶でできている
「人間は何でできているのか」ということの、根本的なことを知る必要があります。
人間は何でできているでしょう?
この問いに、人間は肉と骨と皮でできている、水分でできている、タンパク質でできている、DNAでできている、細胞でできている、と様々な答えが出てくるかもしれません。これらは物質的に見ると、どれも正しいでしょう。
もし、粘土でできていたら、壊れたら粘土で修復することになります。木でできているこけしだったら、木で修復するでしょう。粘土でできている作品が壊れて、そこに布を張り付けたとしても、これは全くお門違いのことをやっていることになります。
人間が水分でできているとしたら、人間が壊れたら、水をかければ治るでしょうか。
物理的な肉体に主眼を置いている場合は、故障した部位を、物理的に修正しようとします。しかし、本当にそれで修正されるのでしょうか。
肉体に疾患がある場合はまだ分かりやすいですが、精神的な病は、一体何で修復していけばよいのでしょうか。
私たちは一体何の産物なのか。何の結果の産物なのか。
一体、何でできているのでしょうか。
その捉え方次第で、手の打ち方が変わってきます。
それが分からないで手をつけたら、人間の思惑や都合などで、まったく的外れのことをやってしまう可能性があるのは当然のことと言えます。
精神疾患については、特にそこのところが明確に分からないとお手上げなのです。
人間を構成している心とは一体何なのか、何でできているのか、この問いに答えを出せる人がいるでしょうか。
それが分からないで、修復することはできないのです。
それは、普通に考れば当たり前のことです。今の医学の研究段階では、残念ながら、心のことについては分からないまま手探りをしている状況です。
東洋医学では心を概念的なものとして捉え、西洋医学では、神経回路の作用として捉えているようです。
では、YS心の再生医療ではどうかというと、人間は記憶でできていると捉えます。記憶の産物だと捉えます。その人の顔を鏡で見たら、お父さんお母さんや、おじいちゃんおばあちゃんに似ています。
性格も似ていたり、将来、同じような病気になる因子も内包しています。
最近では、医療現場でも、先祖や両親の遺伝的なものを問診票などに書かせることがあります。
遺伝的因子のようなものを認めているというわけです。
それらは遺伝子の記憶です。遺伝子の記憶といった場合、両親、祖父母、そのまた上の両親、そのまた上の……と辿ると、それは計り知れないものがあります。
その膨大な記憶が、全部DNAとして引き継がれているわけです。細胞の記憶といってもよいでしょう。
人間は、遺伝子の記憶を、生まれた時点で既に背負っているのです。
それはどこまでも遡れる、実に壮大な人類創生からの記憶と言わざるを得ません。
遺伝子の記憶は一見、血のつながりの記憶であるように見えますが、これは人類の記憶とも言えます。
遺伝子が、両親、祖父母、曾祖父母……から受け継がれると辿っていくと、その数は、仮に30代遡って10億人、40代遡って1兆人という計算になります。
まさに、人類の記憶をしっかりと受け継いでいるのです。
さらに、肉体を持って成長する過程で、両親や兄弟姉妹、学校の友人や先生、地域で出会う人たち、社会に出てからはより広範囲で出会う人たちとの間で経験する出来事の記憶が蓄積されます。
私達は、この膨大な記憶を実は何ひとつ忘れてはいません。
顕在意識は認識していなくても、潜在意識のなかには全て忘れることなくあるのです。
この記憶が、外界の縁をきっかけにして外に出てきます。
簡単な例でいきますと、普段は何も意識していないのに、出会った上司が、厳しかった父親と同じようなタイプの人であったら、怖くなってしまうというようなケースがあります。
あるいはまた、初めて会う人なのに、何となく好き、嫌いという感情が浮かび上がってくることもあります。これらも記憶と考えてよいでしょう。
自分が認識している意識では、そのようなことを考えているわけではないのに、無意識に反応してしまうのです。
顕在意識よりももっと深い部分、潜在意識に、記憶という膨大なデータベースがあるようなものです。
遺伝子の記憶は細胞に刻み込まれている記憶です。
刻み込まれたそれが、刻み込まれた条件に一致したときに蘇ってきます。
外で何かが起こると、自分の五感を通して入ってくるその情報を持って、記憶というデータベースを探しに行きます。そこで、一致したものや、最も似ているものを引き出してきて、感情や言動として反応するのです。
同じ出来事が起こっても、人それぞれ抱く感情も行動も違うと言うことは、このことでも説明がつきます。
では、この記憶とはどういうものかということです。
人間は起こった事象を記憶していますが、これは厳密に言うと記憶ではありません。その事象をどう捉えたかということが記憶になります。
例えば、小学校で運動会があって、徒競走で一位になった子と、ビリになった子の記憶を考えるとどうでしょうか。小学校で運動会があったということではないわけです。一位になった子は、一位を取って周りから賞賛されて嬉しかった、という記憶になることがあるでしょうし、ビリになった子は、ビリになって自信を失い悲しかったという記憶になることがあるでしょう。
その記憶は、その後の行動に影響していきます。次の運動会が来た時に、違う記憶を持ったこの二人の心情や行動は、全く違うことが予想されるでしょう。一方は運動会が楽しみになり、一方は自信を失い、もしかすると仮病をつかって休んでしまうかもしれません。成長してからも、優越感や劣等感が行動となって表れてくるかもしれません。運動会が良い悪いではなく、その時自分が捉えたものが「運動会」になるのです。
こう見ますと、同じ言葉を使っても、その意味するところは全く違ってくるとも言えます。相手を理解するのに、言葉だけではけっして分からないと言うことにもなってきます。
同じ両親に育てられて、兄弟姉妹で、違う反応をすることも、記憶が人間の行動に関与しているということの裏付けのひとつになるでしょう。記憶とは、自分が、その時にパシャリと写した写真のようなものです。その時に、自分が感じたこと、捉えたことが残るわけです。周囲の状況がどうであれ、自分がどう捉えたかということです。起こった事象に意味はないのです。
明るく前向きに生きたいとは誰もが願うことです。人への恨み、憎しみ、嫉妬はしてはいけないと頭では思っていても、でも、やっぱり出てきてしまうことがあります。頭では分かっていても、どうしようもないのです。
2.心が現象に現れる
人間は、それらネガティブな心を克服しようと、そのような思いが出てくるのは自分に何かが不足しているのではないか、自分が未熟だからではないかと、知識を詰め込んだり、暗示をかけてそれを追い払おうとします。外のものでフタをしようとしてしまいます。
本を読んで、その通りにやろうとします。
誰かの成功例をまねて、取り入れようとします。
しかし、残念ながら、しばらくの間はそれで賄っていたとしても、時間を経ると、また同じようなことに悩まされることになります。
頭よりも深い部分から出てくる思いですから、頭ではどうにも制御できません。
顕在意識で潜在意識の部分はどうにもならないのです。
知識を入れても、余計につらくなることもあるわけです。
内から湧き上がってくる思いを、知識や理性でフタをするわけですから、自分の中で綱引きが行われていることになります。
これが高じてくると、精神的な病の症状が表れてきます、その混乱が外に向くと、人を傷つけることに走る可能性があります。
相手を言葉で裁いたり、肉体を実際に傷つける行為におよぶということがあげられます。反対に、内に向くと、うつや引きこもりの症状となって現れてきます。
小さいときにいじめられた経験があって、いじめられて人が怖いという記憶があったとしたら、その記憶が、会社に入ったら、周りの人は全員自分を責めている、悪口を言っていると言う捉え方をする可能性があるのです。
実際にはそのようなことがなくても、その人はそう思い込んでしまうわけです。これは妄想とも言えるでしょう。
頭では理性でなんとかしようとしても、このような記憶が出てくる潜在意識の方が断然強いのです。
私たちの脳は、何かを捕まえて、「これだ」と固定化してしまう癖があります。
父はこんな人、母はこんな人、と写真を撮ってそれを覚えこんでしまうという、そのような捉え方です。捉えたものを、その心をパシャリと写して、それを何十年でも持ち続けているのです。
ひとつの出来事だけをそのように捉えて、あるいは一面だけを見て、そうなのだと固定化してしまいます。
動物は、おそらくそのようなものはつかんでいないでしょう。
でも、人間は、「裏切られた」とつかんだ瞬間から、延々と「裏切られた」という記憶で生きていくことになります。
ここで整理しますと、人は膨大な記憶の塊である、その記憶が外界で起こる事象によって引き出される、それによって心が表れ、言動が表れる、事象が表れる、ということです。
ということは、記憶で人生の全てが決まっているということが言えます。
記憶とは、心と言い換えることができます。病気を引き起こしているのも、全てこの記憶、心です。
病気になるような心が、事象に表れているということです。
◆記憶は変えられる
1.過去を変える
記憶によって人生が決まり、病も記憶が引き起こしているとしたら、人間はどうしたらよいのでしょうか。
遺伝子は記憶です。
性格や、容姿、顔つきなどの雰囲気、動作、ふるまいなども引き継がれていきます。
それらのなかに、病気の元になるようなものがあったとしても、それが変わったら、病気になる元も変わるということです。
しかし、記憶を変えるということができるでしょうか。
記憶というのは、起きた事象の事実ではありません。
その事象によって、その人が捉えた事実です。
一般的には、過去は変えられないと言われます。変えられるのは未来だけだと。
でも、それは違います。
過去を変えないと、今が変わりません、今が変わらないと未来は変わらないのです。
過去はどこにありますか ?
今はどこにありますか ?
未来はどこにありますか ?
全て、その人の心のなかにしかないということはお分かりでしょう。
過去が原因で今があるのも、今が原因となって未来が展開していくのも、全部その人だけのものです。
今表れていることは、記憶が、その人の心が表れた現象であることは前述してきたとおりです。
過去が原因で今があるということは、その心を持ち続けている限り、未来も同じようなことが起こるということです。
ですから、未来だけを変えようと言っても、無理なのです。
過去を変えなければ、未来は変わらないのです。
更に掘り下げますと、過去は、今のその人の今の心のなかにしかありません。過去は過去にあったことではないのです。過去を出してくださいと言っても、出すことはできないでしょう。過去、こんなことがあったと掴んでいる、今の心のなかに過去があるのです。
うつ病にならざるを得ない過去、心があったら、それを変えて今が変わります。すなわち、病から回復します。そして、病から回復した今が原因となって、未来に続いていくのです。
では、過去はどうやって変えるのでしょうか。形があれば、その形を修正することはできるでしょう。形のない、心のなかにある過去をどうやって変えるのでしょうか。
その対処法として、記憶の詰まっている潜在意識に手をつける療法は、世のなかにいくつもあります。
しかし、どれもひっかき傷をつけるぐらいのものです。
膨大な記憶のほんの一部だけを、すり替えていくという域から出ていないのです。
これでは本質的に解決しません。何せ、人類創生からの記憶を背負っているわけですから、自分の思い出せる一部分だけを入れ替えてみても、焼け石に水です。
医療、科学の分野では、数量的に証明されるものしか認知されないという土壌がありますが、しかしその実、人間の肉体の研究、医療の研究を突き詰めていくと、宇宙、命の領域というものに突き当たるのです。
これは、ごくごく当たり前のことであると言えます。
なぜかと言えば、人間のしくみは、人間が創ったものではないからです。
最終的には、そこに行きつかないと逆におかしな話なわけです。
記憶の話に戻りますと、記憶というのは、その人がその時に捉えたものでしかありません。その捉え方にも、その前の記憶が関連しています。
例えば、親が厳しくて、幼少のころに殴られたという出来事があったとします。
そのことを、親は自分を愛していなかったとして刻み込んでしまうと、そこに恨みの心が発生するわけです。
そのことが、それ以降の全ての行動になって表れます。
そうして、親は自分を愛していなかったと、そのように捉えるのは、そう捉える要因が既にその人のなかにあったからということになります。
精神的に病むと、例えば、うつの状態になったりすると、以前から自覚していた体の不調を過大評価しがちになります。
また、自分の過去を、普通の人以上に不幸だと言いがちです。
反対に、精神状態が良いと、本当は肉体的に疾患があったとしても、自覚せずに生活していることもあります。
このことからも分かるように、人間の記憶というのは、自己都合ということが言えるのです。
親への恨みをネガティブなものと捉えて、これを時間をかけてポジティブに変えていくという、一般的に内観と言われる方法がありますが、このひとつの記憶だけを変えても、まだまだ膨大な記憶があります。
そうであると捉える原因になった記憶もそのなかにあるわけです。
これではきりがありません。
しかし、これを一瞬で変えることのできる画期的な方法があるのです。
それは、完全完璧な素晴らしい本当の自分に覚醒することです。
顕在意識、潜在意識、その更に奥に宇宙意識があります。
この内なる宇宙の意識を自覚したときに、潜在意識の記憶が変わります。
宇宙意識は、人間の法則では考えることはできません。
宇宙意識は、言ってみれば、迷いのない、喜びと愛の心です。
愛は情愛の愛ではありません。
全ての物に通じ、全てのものが宇宙としてひとつであると分かっている心です。
この意識を自覚すると、潜在意識にあった記憶は変わります。
どう変わるかというと、捉え方が変わるということです。
親が殴ったのは、自分を愛していなかったからだと捉えていたものが、自分も含めた宇宙の全体がひとつであるということが分かる心が表れたとたんに、それらも、自分に対する深い愛だったと変わるのです。
対立する概念、主従の概念、あらゆる相対の概念は、宇宙意識にはありません。
ですから、それを自覚した途端に、全てがひっくり返るのです。
恨んでいた心を、人間の捉える愛、感謝に変えるのではありません。
理性や学習で変えていくのでもありません。
元々内在する意識をただ引き出しくれば、あとは自ずと、宇宙の法則に沿った方向に動いていくのです。
過去は変えられます。今も変えられます。そして、未来も変えられます。
この原理から、病も治癒していくのです。
病は自分の心の表れですから、その心が変われば、病という結果も変わっていくのです。現象が全て変わっていくのです。これこそが、病を根こそぎ治癒させていく方法なのです。
心というのは、肉体と比べると、時間がない世界です。肉体は時間がある世界です。肉体は、治っていくにもある程度の時間が必要です。でも精神は、心は時間のない世界ですから、瞬時に治ってもおかしくないのです。