うつ病回復・改善体験談

うつ病を克服!

岐阜・19歳・女性

 私は一年前から精神的におかしかった。父の会社の事、家庭の経済的な事、学校、友達、バイトの事、全てに悩んで、常にイライラしていた。その為に平気で人を傷つけた。どんどん自分が汚くなっていくのがわかった。

 そんな自分を冷静になって振り返った時、涙が出るほど悲しかった。頭で、人に優しくとか人を許すとか色々考えてやってみようと思っても、結局、涌き出てくる感情を抑える事はできなかった。

 私は自分の中で葛藤する事に疲れて、どんどん無気力になっていった。でも無気力になっていく自分にホッとしていた。

 もう人を傷つけなくてすむ、自分も傷つかなくなる、葛藤することもなくなる、そう思っていた。

 五月に入ってから私はますます落ちていった。人から「お前の一番やりたい事は何」って聞かれた時、自分の中に何かがしたいとか、何かが欲しいとかそういう感情もなくなっている事に気付いた。

 そして、ほとんどの感情も失って、苦しみだけが残っていた。毎日、理由もなく突然落ち込む。

 お腹の辺りに自分の力が全て吸い取られていくような感じがして、その後胸と頭がすごく苦しくて、今、この一瞬を楽にしたくて、壁を殴ったり、タバコの火を腕に押しつけた。何が苦しいのかもわからなかった。

 その状態が3ヶ月続いた時、私は「自分は悩んでいるんじゃない、病気なんだ」って自覚した。

 そして母と一緒に精神科に行き、鬱病と診断された。どんどんできる事が少なくなって、そんな自分に嫌悪感を感じた。

 「皆ができる事をどうして自分だけできないのか、今までできた事がどうしてできないのか」と思えば思うほど、自分を律しようとすればすればするほど深みにはまっていった。

 ある日、学校で、イスに座って話を聞くだけの授業で、涙が出てその場にいる事さえも耐えられなくなった。何が辛いのか、何が悲しいのかもわからず、ただ耐えられなかった。その時、私は自分の限界を感じた。自分を律しようという思いよりも、もう限界だ、という方が強くなっていった。

 その頃、初めて塾長と出会い、「良くなりたいでしょう」と聞かれた。とりあえず「ウン」と首を縦に振ったものの、そんな事は全く思っていなかった。

 私が考えていた事は、死ぬこと、入院すること、どこかへ行ってしまうこと、それだけだった。

 私は一回目のセミナーの時、本当は人に認められたかったという事を口に出す事ができた。今まで「自分はこんなに頑張った」という言葉を出してはいけないと思っていた。それが美徳だと思っていた。

 そして、両親が私にもう何も求めていない事がわかった。

 両親の望んでいる事は、私が毎日泣きながら学校へ行く事ではなく、私がただ笑ったり、おいしいと言ってごはんを食べたり、普通にしゃべったり、それだけなんだと気付いた。

 私は今この一瞬を笑っていればいいのだと感じた。

 私はそれまで、人に否定されて落ちていったと思っていたけど、自分自身が一番自分を否定していた。いつも人と比べて、自分はこれができない、あれができないと、自分を認めていなかった。

 でも、自分を認めるという事は、人よりもこれができるとか、人と比べて優れているとか、そういう部分を認めるのではなくて、自分の絶対的な部分を認めるのだとわかった。

 そして最後に私はこれがやりたいというものが出てきた。私の体の中から喜びがあふれてきて、何だか嬉しくて仕方がなくなっていた。全ての問題は自分の中にあった。

 二回目のセミナーで、私は体も心も病気をするけど、私の中に何か病気にならないものがあると実感した。それが真我であると思う。

 私がどんなに人を傷つけても、病気になっても、宇宙の愛は私の中でずっと光り続けていたなと感じた。私の中にはすごい力があると感じた。

 でもこのセミナーの中に、私に自分でもよく理解できないことが起こった。それは異常に母を求めた事。

 母が隣にいない事がすごく淋しくて、スタッフに「お母さん、お母さん」と言った。

 セミナーから帰っても、私は異常に母を求め続けた。夜寝る時、母の体に触れていないと眠れなかった。

 母がいないと頭の中が、「お母さんがいない」という思いでいっぱいになった。

 さらには、母とベタベタしていても、「淋しい」と言って泣いた。

 そして鬱の時と同じ様に落ち込んでいった。病気が治っていかなかった。そしてその理由を自分ではっきりと自覚していた。

 三回目のセミナー当日、前日はやる気満々で東京に行ったのに、朝起きたら、セミナーを受ける事が嫌で嫌で仕方がなかった。

 口から出てくる言葉は「イヤだ、帰りたい」ばかり。じっとしている事ができず、無意識のうちにイスから立ち上がり、ドアの方へ向かって歩いていた。

 スタッフの方がに止められて、その自分に気付くという感じで、部屋の中にいる事も息苦しく、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。

 「イヤだ」という自分もフラフラする自分も、自分ではない様な気がした。何かを思い出すことがすごく嫌で、思い出すのを抑えつけた。

 夕方になって「お母さん嫌だ、お母さんキライ」という言葉が出てきた。吉原さんに「お母さんの何が嫌なの」ときかれ、「宗教」と答えたとたんに、今までの母の宗教に対する不満が次から次へと出てきた。

 母の宗教は私の目から見ると娯楽にしか思えなかった事、私が何を相談しても宗教の教えで答えが返ってきた事、私に対してしてくれることが全て宗教の実践としてしてくれるとしか感じられなかった事、宗教が原因で夫婦ゲンカしていた事、宗教の行事でいつも家をあけていた事、母の心が家族ではなく宗教の方へ向いている事、話している内に体がブルブル震えてきた。

 塾長から「病気が治ったら困るんだ」と言われた時、バレてしまったな、痛いところをつかれたなという感じだった。私の病気が治っていなかった原因は正にその通り、病気が良くなっていく事を、自分が恐れていた事だった。

 私が病気の時、メチャクチャ苦しかったけど、ある一点においては一番幸せな時だった。それは母の心が私に向いている事だった。

 母が愛してくれていると初めて感じることができて、幸せだった。病気が治ったら母の心がまたどこかへ行ってしまうのではないかと不安だった。

 私は宗教を否定してはいけないと思っていた。宗教は私にとっては冒してはいけない領域だった。でも今回のセミナーは、その触れてはいけない部分に触れなければいけない、「ゴミ箱」にはき出す時も「原点の心」をやる時にも、母の宗教を避けて通ることはできないとわかっていた。

 何を思い出しても、最終的に私の辛さを母はわかってくれなかったことに行きついてしまう。その為拒絶反応が起こった。

 最初のセミナーで、母の「原点の心」を聞いた時驚いた。母の書いた最後の一文と私の最後の一文が全く同じだったから。「たった一言、お母さんに『辛かったね』と言ってほしかった」って。

 未来内観の中で、その母の淋しさに集中していった時、私が淋しかった事や、母の宗教に対する不満は、もう頭の中になかった。

 母も私と同じ淋しさをかかえていたんだなあ、心が満たされていなかったんだ、だから宗教に走ってしまった。

 私は今までお酒を飲む父を受け入れていく為に母には宗教が必要だったと思っていた。でもそうではなかった。原因はもっと深い部分にあった。

 私は淋しさを訴える事ができたけど、母には淋しさを出す場所もなかった、母の方が辛かったんだ、母もその淋しさを私と同様、誰かにわかってほしかったんだと気付いた。

 私は母の口から「お父ちゃんとお母さんが別れて淋しかった、辛かった」という言葉を聞いてすごく安心した。嬉しかった。「お母さん、やっと言えたね」って思った。

 「母親」としての見本を持てなかった母にとっては、子どもの愛し方を「勉強」するしかなかったのだと思う。その子どもの愛し方を学ぼうとした母の努力こそが、私に対する愛情だったのだと感じています。

 今回のセミナーで、代々受け継がれてきた、そして間違いなくこれからも続いていったであろうこの母と娘の確執の歴史を、母にとっては長い道のりだったけど、母と私の代で止める事ができて本当に良かったと思います。

 私自身、高校生の時に、キリスト教の教会を自分で見つけて行ってみたり、聖書を読んだり、般若心経を覚えてみたり、宗教にはまったりしていました。

 あのままいっていたら、私もきっと母と同じ道を歩んで、私の子どもに同じ思いをさせていたと思います。

 私は今、以前のように異常に母を求める事がなくなりました。母に対して「お母さんそんなに薄着で寒くないの」と母を思う言葉が自然に出てくるようになって、そんな自分を嬉しく思っています。

 今までは食事の時にお茶を持ってきてくれなかった母が、昨日は恥ずかしそうにもってきてくれました。

 小さな小さな幸せに気付く幸せ、ありがとうございます。

 あれだけ「帰りたい」を連発する子を、普通に考えたら、家に帰した方が皆にとって楽だったのに、帰すことなく面倒を見てくれて、大切なことに気付かせてくれた塾長に心から感謝しています。ありがとうございます。

 最初のセミナーでゴミ箱に書いた「父の哲学と母の宗教にはさまれて私はつぶされた」の『父の哲学』の部分をきれいにする為にまたセミナーに行きます。

 本当にありがとうございます。

 

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東京日本橋の心療内科 YSこころのクリニック

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